ノンフィクション
中国・南京からの引揚

小学校1〜2年生時の出来事が主体です。殆んど両親、親戚等から聞いた事を思い出しながら綴ります。

軍属(*)の父に家族携行が許可されたので、昭和20年(1945年 63ヶ月)1月1日に自宅を出発、下関から関釜連絡船(下関〜釜山)に乗船、釜山に上陸して列車で朝鮮半島を縦断、北京経由で揚子江を渡って南京に到着途中2回旅館の様な所で宿泊、他は列車に乗りっぱなしでトイレに行きたいときでも満員列車なので大変、座席に戻るまでにまたトイレに行きたくなったこともある。父が弁当を買いに行くときも列車の窓から乗り降りしているのを覚えている。(*)軍属とは、軍人(武官または徴集された兵)以外で軍隊に所属する者のことをいう。

後々、両親から聞いた話では自宅から9日間掛けて、列車の乗り継ぎと揚子江の渡し舟で部隊近くの家族宿舎に到着したとの事。その日の夕刻に宿舎の共同浴場からの帰り、数十人の親子が集まって相撲大会が開かれていて、小学生未満の取り組みで、最後に勝ち残ったガキ大将の相手をさせられる、渋々取り組んで簡単にやっつけると相手は悔しかったらしく泣き出す、翌日からガキ大将と大変仲良くなって、一日中行動を共にするようになる。

自分と姉と3才下の弟のお手伝いを兼ねて中国人女性を雇う、その女性に中国語を少し習ったが今では殆んど分らない。

宿舎は南京市和平新村(占領当時の地名)で玄武門の近くで周りは鉄条網が張り巡らされていて外側の人とは接触出来ないが、隙間を使って物品の購入は出来ていた。玄武門の傍に玄武湖があって湖岸にサクランボの生る桜の木があり、食材を買出しに行く兵隊さんの車で何回も連れて行ってもらった、木の上で食べたサクランボの美味さ、今はもう忘れてしまったが、今はどうなっているのか懐かしく思う。他の思い出としては、子供だけでは歩けない程の大雪、夏の暑さ、南京博物院の出口で檻の中の猿に手袋を取られたことぐらい。

4月に入って日本人学校(軍の敷地内)に入学するが人数が少なく上級生と同じクラスで行きかえりも同じ、子供ながら道幅の広いのには驚いた。

暫くして通学での履物はダメの命令があって、靴、草履、下駄もダメで本当の裸足。自宅から学校(部隊の建物の中)までの道路のアースファルトが日照りで柔らかくなっていて、足の裏が大変熱いので道中時々道路そばの溝に入りながら学校まで歩くことも度々あったのが、7月頃だったと思う。

このときに弟が風土病で他界。自分もマラリヤにかかる、高熱が出て寒気と震えがする、幾ら布団を掛けてもらっても震えは治まらない。父が薬を貰ってくるが蓖麻子油の様な油っこい飲み薬を与えられるが2日間ほど震えがとまらない。

8月15日に玉音放送があり暫くして軍隊の敷地内の宿舎に全家族が転居する。重慶から中国兵が来るとかロシア兵が既に来ているとかで大変な騒ぎになり、大勢の母親達が丸坊主になって変装をして家に閉じ篭っていたと聞く。

引揚日が決定しからの数日が待ち遠しい。乗船の当日、広場に引き上げ家族全員が整列させられて、手荷物の検査を受けているときに大きなシェパードにいきなり左足のふくらはぎを噛まれるが犬を連れていた中国人の警官らしき人は笑って犬を引っ張っていく、犬に悪さはしていないのに目が合ったのかも知れない、永年過ぎても歯形が残っている、今なら大変な出来事。

貨物船を改造した引揚船「江の島丸」に乗船、甲板のハッチから垂直の梯子で船倉へ降りる、数日後の夕食時にいきなり「ドッッカン」正座していたがショックで自然と立ち上がっていた。

明り取りのガラスがバラバラと落ちてくる、食事の「水団」でビショビショ、何が起きたのかさっぱり分らず、怖かった、揚子江河口付近で船尾に機雷が当ったと後で分る。

甲板に出ると船が横付けしていて、人々が飛び移っている。自分は小さいので船員に放り投げられて甲板から甲板へ移る、もし落とされていたら助かってないと思う、このときに父がいない、掃海艇の甲板で母と姉と三人で固まっていると父が水筒を両肩に襷掛けにしてやってくる四人とも無事でよかった。

父は直ぐに甲板へ上がらずに、ともかく水があれば暫く大丈夫と思って水筒を拾って来たらしく、そのときに自分で先に飲んだのが醤油だったので捨てたと言って笑っていた。

後々聞いた話では、米軍の掃海艇2隻が「江の島丸」の両舷を抱えるようにして救助してくれた、もし近くに米軍の船が居なかったら大多数の犠牲者が出たと思う、助けてもらったことに感謝しています。

しかし、掃海艇は小さいので「江の島丸」が船尾から沈没する直前に引き込まれないようロープを外して避難して、直ぐにボートを降ろして船首の方に残されている人たちを救助に行く

吃驚したのは甲板に居る自分たちの頭の上のボートが何かの操作で海面に飛び込むと同時にエンジンが掛かる仕組みになっていた。

甲板から飛び移るときに海に落ちた人、船首に残された人、全員の救助は残念乍ダメのようでした、また船内で機雷の直撃を受けた多くの犠牲者も居られます、全部で200余名と聞いたように思う。犠牲になれた方々のご冥福をお祈りします。

救助された後、上海へ逆戻りして約3ヶ月間次の引揚船を待つ。蚕の棚(今で言う2段ベッド)での生活は大変な苦労だったと母から聞く。

昭和21年2月10日早朝に日本の陸地が見えて皆大喜び、九州・長崎近くで海面のコバルトブルー色と言うか濃紺の海の美しさは今でも目に焼きついています、揚子江の土色とは全く違う。

長崎・佐世保港に上陸後、首筋からシャツの中へDDTを噴霧されて、溢れ出して来た為に後頭部は真っ白で顔まで白くなっている子供もいました、自分も同じだったと思う、酷い消毒の仕方。

神戸の親戚の家に着いて翌日に自宅を見に行く、親戚の人から聞いていたとおり焼け野原、一昼夜燃えていたと聞かされました。周りに残っている家屋も沢山あるのに何故、いいえ自分の家だけでなく斜めに南から北へと米軍が落とした焼夷弾にやられたと母方の祖父が説明してくれるが、一ヶ月早く終戦になっていれば焼失は無かったでしょう、また、広島・長崎の原爆被害者も出なかった。

数ヶ月後に航空機の整備兵として出征していた叔父(母の弟)がフィリッピンから復員するが、もう一人の伯父(母の兄)は南方で戦死したと終戦までに知らせを受けていたと聞く。

最初の引き上げ船で身の回り品は全て船と一緒に沈没、自宅の先祖代々の建物・家具その他は全て灰。本当の「着の身着のまま」とは此のことを言うと数年後に父がしみじみ語っていた。

その父も阪神淡路大震災以前に他界しています。自分も引揚と震災のおかげ「着の身着のまま」は2回目。

さて、小学校の入学になりますが、自分は日本人学校へ通っていたと言っても、4月から7月までの4ヶ月間だけで、2年生からの転入となるので学力の遅れを取り戻すために、家庭教師の世話になるが、毎日遊んでいるのを先生に追い回されたのも今では懐かしい思い出となりますが、勉強嫌いの自分には大変な苦痛でした。

また入学直後に学校の行き帰りでは「支那のxx、支那のxx」といって、今で言う苛め。しかし、言葉だけの苛めで、相手とも直ぐに仲良くなる。

3年生と4年生の時にマラリヤの再発。治療薬は中国の時と同じような蓖麻子油のような油っこい飲み薬だけ、一日目は高熱と震え、2日目は震えで母方の祖父母には大変な心配を掛ける。

それ以後のマラリヤの再発はありません。苛め相手とも小学生の高学年・中学生になると立場は逆転したように思う、その級友達とは2年毎に集まる中学校の同窓会で出会っているが年々人数も少なくなる。

第二次世界大戦が終わった時点で、海外の諸地域に残された日本人の数は、軍人・軍属が約320万人、一般邦人が約300万人以上といわれていました。

しかし、中国からの引揚船「江の島丸」の資料、犠牲になれた人々の記録がネット上で見つからない。